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政治と政治ゲーム。 [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

安倍首相に千葉市長が苦言、全国の小中高校に休校要請表明で「社会が崩壊しかねません」

 政治的なポジションを語る気はさらさらないのだけれど、この千葉市長の言葉は「政治」である。政治ゲームではなく。
 ひとつの政治的判断をすれば、それはさまざまなところに余波をもたらす。その余波までどのように吸収し、対応するかまで設計して初めて政策であり、政治だ。自分が対応を批判されて、その批判に呼応するためにメッセージをブチあげるのではおよそ政治とは言い難い。
 子供を抱えて、いつも学校に送り出してから仕事をしている人の収入はどう保証するのか。医療関係者で子供がいる場合、医療という公共目的に従事すべきか私的事情を優先していいのか、そのバランスはどうなるのか。そこで生まれた損失を、どうするのか。
 もちろん、政治だから、思い切って強引に決断することもある。しかし決断までいとまがなかったといえばそうかもしれないが、それはすべての権力ならばどんな権力でも使える理屈だ。それをもう一段高めてこそ、本来あるべき権力の姿に近づく。

 今回の議論で目立つ誤解は、日本という国は「政府への信頼がない」国、ということだ。それが仕方がない面がある。世界の歴史を見ても、敗戦国というのはたいがいそうだ。日本にしても、75年前に終わった戦争で、海外の「人道的」問題をさておいたとしても、あたら300万の国民の命を散らし、しかも戦争に負けたという酷い政府なのだ。そういう政府を信頼しないのは当然で、さらにいえば、ドイツがそのことを前提に「いかに信頼に足る政府、国家という体をなすものとして取り戻していくか」ということを善くも悪くも進めたことに比べれば、戦後日本政治の歩みはアメリカの軍事力の傘のもとほとんど何もしてこなかったに等しい。これは主として政権を担ってきた自民党への批判ではなく、野党も、マスコミも、市民もまた多くはこの構図のなかで生きてきたのである。
 だから、政府が指示できない。今回もあくまで「要請」だ。ほんとうに公立学校が閉鎖されるかどうかはそれぞれの地方の教育委員会が決める。政府が弱腰で責任回避している、ともいえるけれど、そうしたことを強制できない国であることを日本全体が三四半世紀にわたって求めてきた結果でもある。
 だからといって、政治が何もしなくてもいいわけではなく、政治の責任が回避されるわけでもない。そういう弱い政府だからこそ、懇願しなければならない。今の状況が国難かどうかはわからないが、何度か前の総選挙にあった「国難突破解散」のころよりは十分国難的なのであり、ここはやはり、首相自らがマスコミを使って、対策会議の冒頭撮りだけでなく記者会見で直接国民に訴えるべきところではないかと思う。
 それがないのでは、政治も民主主義もゲームでしかない。庶民のリアリティは、日常の生活にあるのだということをなんとか、もう一度呼び起こしたい。
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異様なシステムの蠕動と記者会見 [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

とにもかくにも、奇妙なことが起きている。

年の瀬、その奇妙さを強烈に感じたのは、郵政3社の社長の辞任会見だった。鈴木前総務事務次官から、同じく鈴木前上級副社長への情報漏洩が問われているさなか、郵政の社長は「調査はしない」と言い切ったのだ。そしてその理由が、「あちらは次官が辞任して、こちらは上級副社長が辞任するので、イーブンだから」すなわち、相討ちだからお咎めなし、というのである。

この世界には、郵政という総務省というステークホルダーしかいないのだろうか。税金が使われている、と声高に主張するつもりもないし、すべてを国民に明らかにすべきだというつもりもないが、郵政という事業には支払いをして参加しているわけである。つまらないことでお金が浪費されているのであれば、所定の郵便料金を払っている方がバカバカしくなってしまう。

同様のことは多くある。年明け、通常国会に出てきた不祥事の疑いを向けられている議員たちは、支持者や党、支援してくれる有力議員には詫びのコメントをだしたが、国民にはなかった。政治は、自分の支持者たちだけのものなのだろう。去年の関西電力の高浜原発をめぐる3億円あまりのやりとりを聞けば、それが犯罪でなかったとしても、そんな金が動いているのなら電気料金を下げてくれればよかったのだ。

馬鹿馬鹿しいことばかりが相次いでいく。そしてその質問が、なぜ記者会見でも、紙面でも、画面でも飛び交わないのか、という奇天烈さも積もり積もってゆく。
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大勲位死す [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 中曽根元首相が、101歳という行年で死去した。まずもって大往生と呼んで差し支えない。
 非難する人も、賞賛する人もいる。人間誰しも、100年も生きれば誰も知らないことを知っているし、誰もしたことのない経験をしているものだから、賞賛されても悪いことではない。一方で、その因縁は果報になったり悪報になったりして、現在に益もすれば害もするものでもあって、難じる人がいることもわかる。
 それが賞賛と批判で終わっては、しかしながら、日本の歴史を見失う。ちょっとそういう思いがあって筆を執った。

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キッチュな国民像 [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 つい最近だが、用事があって司馬遼太郎を読み返した。『峠』を読み返し、『故郷忘じがたく候』を読み返し、大好きな『韃靼疾風録』を読み返した。『韃靼疾風録』は、18歳の折、大学入試センター試験に持っていった本だ。それで、千夜千冊に半藤一利の『山縣有朋』が上がっていて、また司馬遼太郎を思い出したりしていた。
 なぜ司馬遼太郎を読み返していたか、といえば、彼の語り口、文字通り、文章でありながら、少し濃の入った声で、情感を理で語るような語り口を、所用で描かねばならぬ拙文に盛り込もうと思い、自分の中に司馬の文体を入れようとしたからであった。しかしながら、どうもうまくいかない。うまくいかないのは私ではなく、読み手がうまくいかない。司馬の文体に入っているものが、私にはしっくりくるのだが、どうも読み手にはしっくりこないのではないか、ということだ。
 千夜千冊では、このように書いてある。

  維新の有司たちは近代国家を用意し、「天皇の軍隊」をつくり、統帥権という決定を確立した。そのなかで軍政を掌握し、昭和軍国主義の装置を仕込んだリーダーとして頭角をあらわしてきたのが誰だったかといえば、それが山県有朋なのである。
 山県は日本にはめずらしい絶対主義型の首謀者で、一貫してビスマルクに憧れていた。日本に軍政をもたらしたのは、大村益次郎とそれを継いだ山県だ。その点については司馬遼太郎の『花神』(上中下・新潮文庫)などの説明だけではまにあないことが、いろいろある。明治の前歴を刻み込んだ「軍人勅語」「教育勅語」も、山県のもくろみから生まれた。

 そう、司馬だけでは間に合わないのだ。

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How dare youな少女の叫びに思う [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 ちゃんとした大人ならば、こういういたいけな少女の切実な叫びにはきちんと耳を傾けるべきだろう。ただ、もう耳も心も汚れてしまった身としては、こうした少女の切実な叫び以外に手法を持ち得ない大人たちへの苛立ちが先に募るのだ。
 同じようなことを彼女の年頃から思っていた私とすれば、結局この30年間、日本も世界も、全く進歩しないしてこなかったと言うことなのである。そう言ってしまったら今の日本のリベラルには人非人扱いされるのだろうけれども、その間、肝心の理論は、左派、リベラルこそがこの子たちの期待に応えて来られなかったのである。
 もう少し踏み込んで言えば、人間の理性ばかりに目を向けて欲望と言うものに、そしてまた資本というものがその欲望を使って回転する内在的な論理に一切目を向けなかったこの恥ずかしい知と観察力の脆弱性を恥じるべきなのである。理性ばかりを語って、現実がそうならないことへの苛立ちを募らせ、仮設した敵に向かってぶつける度合いが年々ひどくなっている。それもこれも、こんなか弱い女の子の声を借りてより他に主張ができない大人たちの力の弱さのほうに、いま最大の問題があるのだ。
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ラグビー熱に思う阿修羅・原 [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

これだけラグビーワールドカップが盛り上がっているのだから、誰か阿修羅・原のことを書いてくれないかなと思っていたが、フライデーがうまいこと書いてくれていた。いろいろあって、いやありすぎて、最後は郷里に戻って寂しく息を引き取った、私の故郷の英雄。こういう人生を寂寥に思う。
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日韓関係の「常態」を想う [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 日韓関係というものは、黙っていれば、つまり何もしなければ大体このような状態になるのである。それがこの文で言いたいことだ。このような状態こそが「常態」なのである。
 そのことを踏まえた上で、このそれよりも悪い状態を避けようという努力が日韓両政府によって行われてきた。それが朴正熙政権以来、日韓基本条約に基づいた日韓の国交であったのだ。現在の悪い状態は、「常態」がもっと理想的であるという誤謬を信じてしまった日韓両政府によってもたらされたものである。率直に云えば、西洋近代社会システムのようなかたちでは、両国は仲が良くなることがもともと難しいのである。
 近代になる以前から、韓国(朝鮮)は日本のことをある儒教的な秩序いわば徳のレベルにおいて劣位にあるものとみなしてきた。その構造が現在も機能しているうえに、植民地支配における加害者と被害者という関係が上塗りされている。一方日本としては、そこまで華夷秩序の序列において韓国という国家を見ることに関心がないものだから、なぜ韓国がそこまで怒るのかもわからないしわかったとしてもその解決方法を提示することが難しい。上下関係を必死に見たい韓国と、本来はそこまで関心がない日本というのが基調にあり、そこに、近代の支配者と被支配者という構造から、日本側も韓国側に対して優位に立とうという意識が重なったものだから、事情はかなりややこしい。
 日韓の場合、あからさまな人種差別的な意識を持って行われた植民地支配と異なり、日本はいわばのんきに韓国を植民地支配し支配しつつ、そこで優劣論や同祖論を展開してきたという経緯もありそもそもこの問題に対する熱量が違う。今回の貿易管理上の措置も日本からすればそんなに大した事ではない、という理屈になる。しかしながら韓国にとってみれば実害以上に、そもそも徳のレベルにおいて劣位にありかつ加害者でありながらいっこうに反省の姿勢を見せない野蛮な日本が、上位にある韓国に向かって信用ならない国家であるというレッテルを貼り付けたことが許せないのであろう。

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「民放のNHK」のNHK観 [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 久米宏がNHKに生出演して、NHKは国に首根っこを抑えられているから民営化すべきだと言う話をしてそれなりにネットで評判になっていた。NHKは昨今政権に偏向報道を余儀なくされている、という不満がある人にとっては溜飲が下がる話に違いない。
 長く放送に携わっている人間から見ると、この久米宏の喋り方は、何とも言えず、古き良きTBSの物言いだ。TBSは長らく、民放の中では放送の公共性を最も担う放送局であるという自負が強かった。報道のTBSであり、ドラマのTBSであり、エンターテイメントのTBSであった。よくも悪くもTBSにはラジオ東京から出発して戦後の日本の放送特にテレビのあり方を開発してきたという自負もあり、いわば、「民放のNHK」として、NHKなど存在しなくても10分自分たちだけで放送の公共性になっていけそう自信を持ってきた過去があった。
 もちろんそれにはそれなりの実績も伴っている。後にテレビマンユニオンを作ることになる萩本晴彦、村木良彦、今野勉らは言うに及ばず、ザ・ベストテンも作りながら名作と称される「岸辺のアルバム」を演出した鴨下信一、ハノイからのリポートを出したニュースコープ等々、十分その名に値する実績もあったのだ。
 しかしそのようなことをいう人は今はTBSにも少ない。何故かといえば、TBSは、1995年のオウム事件の時に明らかになった、放送前に事前に編集VTRをωオウム真理教のメンバーに見せていたことが大きな傷となったからだ。日本の放送局には多かれ少なかれ放送倫理にもとるような事は過去何度もあったけれど人の命に放送倫理が関わった事はテレビ朝日のアフタヌーンショーのヤラセの一見とこの事件だ。ニュース23のキャスターだった筑紫哲也は「TBSは死んだ」とまで述べた。そこには「民放のNHK」の気概はなかった。
 その後もTBSはいい仕事をしているが、NHK批判は影を潜めた。そのような批判では、TBSの歴史はどうしようもなくなったのだ。そのどうしようもなくなったTBSの歴史に実直に向き合って仕事をしているたくさんの人がいることも事実である。TBSのいい仕事を否定するつもりもない。しかし、昔ながらのNHK批判をTBSの口から聞くとき、あのオウム事件の影がよぎる。歴史を忘れたかのように軽く口を開く人は、まだ他にもいる。
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平成の頭と終わりを紐に締め [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 平成の終わり、そして令和の始まり。言祝ぎには相違ないが、この三十年を簡単に振り返れば、何か始まったようでいて、そして何も始まらなかった時代だった。平和な時代ではあったが、凡庸な時代といえなくもない。貶すつもりはなく、若き日に平成の始まりを見て、老境を垣間見る年にその終わりを観望する苦しみと重みがすっかり骨身に染みついているからだ。
 多くの振り返り番組が伝えているように、平成の始まりは何かの断絶と変化とともにあった。昭和という時代はそれほど日本人に重く、そして戦争の記憶とそこからの回復という質感がのしかかっていたが、それが終わるという重さを昭和天皇の進み行く病状と崩御に積みおくようなものであった。その衝撃は大きかったけれども、しかし、新天皇の即位は新たな時代の到来でもあったわけだ。
 それは事実、として続いてきた。6月の天安門事件は、人民解放軍による鎮圧によって民主化中国をもたらしはしなかったけれども、しかし、かの共産中国が別の胎動をはらんでいることを伝えた。10月のベルリンの壁の崩壊は、何よりも、東西冷戦という戦後50年にわたって世界の基本構造であり、そして核戦争数分前という布告によって重苦しく人々の意識を抑圧してきた構造が壊れたわけだ。
 冷戦構造が崩壊し、核戦争が遠のいて、現実になったのは平和だけではない。何より、「自由」だった。自由主義社会が社会主義社会に「勝った」のである。このことは、単にイデオロギーとしての勝敗にとどまらず、まさに「自由」を謳歌する時代がやってきたことだった。人々の価値観やモードも自由になっていく。プリンセス・プリンセスがガールズバンドの常識をぶっ飛ばしてベースラインから曲を始めても、そしてもちろん、尾崎豊が夜の校舎窓ガラス壊して回っても、すべてが、その数年前から胎動していた「自由」への渇望が噴出していた。
 「自由」とは、何とも難しい概念である。

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ふるさと納税というゲーム [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 ふるさと納税に総務省が文句を言っている。本来の趣旨とは違う、ということだ。
 そもそも納税、住民税の納税は、自分が住んでいる自治体に納付するのが本来である。
 地方公共団体の行政を「サービス」と呼ぶのは本質的にはどうかと思うが、「住民サービス」という言葉も根付いてきたので今日はそう呼ぶことにしよう。その意味でいえば、住民税とは住民サービスの対価である。もちろん対価といっても、そこは公共団体なので、自分に直接返ってくるサービスもあれば(日常的なゴミ収集業務とかはそうだろう)、自分というよりは共同体全体に資するサービス(教育などがそうだろう)もある。しかしいずれにせよ、自分か、自分が住んでいる自治体というコミュニティに対してのサービスを支えるのが税金である。
 ふるさと納税は、この原則から外れる。外れた以上は、具体的な住民サービスとは異なる、各自治体によるサービスの”努力”を促すことになることは理の当然である。

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