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古井由吉とともに、日本語も封じられる。 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

 メディアの世界で禄を食む人間としては、たとえば緒方貞子さんだったり、中村哲さんだったりが亡くなったときに、大いにその業績を顕彰し、一つの時代の区切りを嘆いてみせるところなのだろう。直接彼らを知っていないとしても、あたかも十年来の心の友人であるかのように語る人々の虚言が飛び交う業界には少々うんざりもしているが、それがこの世界で手付きを立てる最低限の倫理だということもわかる。

 しかし私だって、単にシニシズムなわけではない。人の訃報を聞いて言葉を失うということがないわけではない。ひとつの世の区切りを思わないでもない。木曜日がそうだった。古井由吉さんの訃報だ。NHKの夕方のニュースで聞いた。そして『仮往生伝試文』を読み返した。

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 奇遇だが、ちょうどその日の朝、本屋に足を運んで、駐車場代が浮く2000円くらいの本がないかと物色していて買ったのが『詩への小路』だった。長らく読みたかったのだが手が出ず、今年初めに文庫になったことを知ってさっそく、嬉しい心持ちで買ったのだ。そして訃報を聞いた。

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世界標準が、巨龍の尻尾をつかむ全日本卓球。 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

19日に男女シングルスの決勝がおこなわれた全日本卓球選手権。素晴らしい試合だった。その素晴らしさを一言で言えば、全日本の決勝で、「ガチ」のワールドスケールの試合が行われた、ということだ。男女とも。

事前に告白しておけば、優勝した男子・宇田、女子・早田はいずれも私の「推し」選手だ。なぜ「推し」なのかといえば、二人とも、試合の仕方が、世界的なプレースタイルを純朴にやるタイプだからだである。無理なく、世界標準のプレーができるとこに、可能性と魅力を感じずにはいられないのである。そう、日本卓球は、日本で勝つことと、世界で勝つことが別次元である次官が長かった。その時代を打破してくれる可能性を感じさせてくれるのだ。

もう語られなくなった過去のことをいえば、世界の卓球は長らく、オフェンシブなペンホルダー、オールラウンドなシェイクハンド、ディフェンシブなカットマン、という3タイプの対抗戦だった。特に1980年代は、

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安倍首相の「スキャンダル」 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

 安倍晋三首相が、史上最長任期を前に危機に立たされている。
 これまでひどいことがたくさんあった安倍政権だが、野党がどんなに追及しても、マスコミがどんなに批判しても、彼の政権が揺らぐ、というほどのことはなかった。野党がその代替になるほどの力を持ち得ていない、という評価もあたってはいるが、より抜本的には、安倍首相には「金と女」のスキャンダルの要素がからっきしないからである。下世話な話だが、歴代政権のほとんどがこのどちらかのスキャンダル(金がほとんどだが)から倒れてきたことを思えば、世間はやはり、公文書記録の廃棄といった国家の根幹を揺るがすことよりもこちらのほうに反応するのであって、これは不思議でも何でもない。
 世のふつうに生まれた人が政治家を志し、ましてや一国の宰相をやろう、なんてことになれば、ふつうその人が工面できる上の金が必要になる。だからどの政治家にも、どんなに清廉でも、篤志をもって世話をする支援者がいるものだが、それがどんなに高潔な篤志であっても、やはり金のやりとりというのは何らかの意味で人を縛っていき、後ろめたさにもつながる。これは自民党だけでなく、民主党政権のときだってそうだった。しかしどうやら安倍首相は、みずからが宰相として振る舞うためにあまり金の苦労をしていない、金のために頭を下げる必要がなさそうなのだ。それを補うくらいの金は持っていそうだ、ということだ。
 しかも彼の場合、時代がよかった。

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「いだてん」とカタルシス [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

 「いだてん」を見て、面白いのに大河ドラマとしては何かがない、と思い続けていたが、ようやくピンと来るものがあった。カタルシスがないのだ。
 大河ドラマがこれまで作ってきた、勧善懲悪でもいいし何でもいいなら自分が何かを相手に投影できるようなイメージになり切れないのである。下世話な例えだが、織田信長を大河で見て月曜の上司が急に強権的になっていたり、西郷隆盛を大河で見て急に人格者になっていたりするようなものがないのだ。
 だからといって「いだてん」がつまらないドラマではない。脚本もよく練られているし、豪華出演陣の演技はひとつひとつ、面白さもあり味わいもある。ただ、カタルシスがない。
 フェイスブックやツイッターで盛り上がる人は多く、論戦論破は相次いでいるが、SNSにおいて論争に勝利しても残るのは疲弊感のみである。勝利がカタルシスに結びつかないのはたぶんこれからの文化の問題の一つ、物語の疲弊という文化的課題のひとつのはずだ。「いだてん」はきわめて現代風にできていて面白いのだが、カタルシスがない。コンテンツに高揚感が失速しているというのはデジタル時代の新たな、そして最大の課題なのではないだろうか。
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TKという世の節事 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

 小室哲哉の記者会見をみたが、絶望的に痛々しい。この、一応は富国のなった日本で、これほどの“栄枯盛衰”を一身で体現する人も珍しいが、それだけではない。少なくとも、彼はひとつの、テクノなサウンドとは裏腹に「世の節」ともいうべき時代性を象徴した人だった。
 いわゆる「TK」と呼ばれた時代については実はさほど詳しくない。私自身はそれより少々前のTMネットワークのファンだったので、その後訪れたTKムーブメントには少々遠い感じがしている。TM時代の彼らには、それでも歌があった。ボーカルの、人の声を活かして何かをクリエイトしていこうという意思があった。当時から「キャロル」でミュージカル仕立てのストーリーテリングを試みるなどそれまでにない試みはすでに小室哲哉の斬新ではあった(少々滑ってはいたが)が、それでも基軸にあったのは「歌」だった。
 しかし、TMの活動を休止し、プロデューサーとして全面的に活動し始めた後の彼が達成したのは、メロディーに起伏がなく同じリズムラインの繰り返しであるダンスミュージックを日本的な歌謡曲の作法に結びつけたことだった。歌謡曲育ちの私としては忌避感を覚えるほどの凄みがしかし、その当時にはあったのだ。
 これは強烈なフォーマット化だった。ポスト・モダンな日本の音楽があるとすれば、歌詞の物語性はおろかメロディーの連関性をリズムで打破してしまう恐るべき手法だった。

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『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

シリーズものというのは常に難しい。ドラマを持たなければ物語にはならないが、その物語がパターン化して日常化しなければシリーズにはならない。

あれだけメルヘンで描けるはずのパイレーツ・オブ・カリビアンを以てしても、それは難しい。最新作の『最後の海賊』はシリーズ全体を通じて秘められた真実(それは相棒の海賊船長にかかわるものだが)が明かされるのだが、シリーズものにしてはその位置づけがドラマチックすぎて、でも、それをやるためにシリーズとして肝要なキャラクターを殺してしまうという、切ない結末を迎えてしまったような気がする。

もちろん、これが「最後の海賊」だし、さらなる続編で突然復活してもそれはそれでメルヘンだからありなのだが、その苦しさがあちらこちらで垣間見える。そう思わなければ楽しく観られる活劇なのだろうけれども。
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『22年目の告白 私が真犯人です』 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

22年目の殺人

わざわざ映画でやるほどのものだったか、というのはある。しかしやはり、藤原竜也も伊藤英明も画面映えする。

サスペンスとしては、ストーリー展開が早見えする感じはあるのだが、それを差し引いても、役者の演技で引っ張れるところはさすが。できれば犯人の狂気を、人の生き死ににかかわる見方の狂気を丹念にドラマで描いて欲しかった。


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『君の膵臓を食べたい』 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

ヨーロッパ往復のフライトのなかで、いくつか映画を見た。そのひとつ。ライトノベル系の原作をもつ映画のストーリーに、ご都合主義を訴えてみてもしかたがないのでそこは割り切ってみているし、若い美男美女が出演していればどんな話でもそれなりにキュンとするところはある。

だけどまあ、大人になった北川景子はやはりきれいすぎるし、小栗旬も屈折した青年を演じるには男前すぎる。ヒロインの浜辺美波ちゃんは美少女で、見ていて飽きないことは飽きないのだが、求められる演技が高度すぎて台詞をいうので精一杯。顔立ちが似ていることもあって、10年前の志田未来がやっていたらもう少し没入できて見られただろうに、とずっと思いながら観ていた。

昔の「世界の中心で愛を叫ぶ」に似たような話だが、セカチューが変に本格を気取っていた嫌みがあったのに対し、この話はもともとがライトノベルなのでその嫌みがないところは見やすかった。それでいいのか、という問題は残るが。


君の膵臓を食べたい公式サイト
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『ラプラスの魔女』 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

一昨年買って放っておいた、東野圭吾の『ラプラスの魔女』を2日がかりで読みおおせた。やはり文章は達意で、目が文章にシンクロしてスラスラと進んでいく。ミステリー作品というのは、特に日本の場合、そのミステリーのトリックがいかに巧妙か、という点の他に、人の感情の機微をどう描くか、というのがあって、その点では東野圭吾では『新参者』なんかが巧みで好きだ。しかし、この『ラプラスの魔女』では、著者自身が「今まで自分がやってきたことを壊す」というふうに言っているように、全体が“文学的”であることを志向しているような文体だった。そのため、ミステリーとしては?となる面もあったが、達意な文章はそこを疑問に思わせずにスラスラと進んでいく。ちょっと残念だったのは、ラプラスの魔女たる主人公の女の子が、もっと魅力的なはずなのだが、そしてそれがそのように描けるはずの著者なのだが、その志向ゆえに、キャラクターがインパクトとして残らなかったところだったか。こういう場合は、いずれ映像化されるときに誰がその役をやるか、ということで決まってくることが多い。で、来年映画化らしい。ヒロインは広瀬すず。監督は三池崇史。うーん、佳作か駄作かは別として、私が読んだ好みを映像にしてくれるわけではなさそうだ…。


ラプラスの魔女


公共アイドルの終焉 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

特段、SMAPに強い思い入れがあるわけではないが、それでも、20年も冠番組で続いてきた「SMAP×SMAP」の最終回には何ともいえない遣る瀬なさがあった。テレビに出たいと思いながら出ることもなく消えていくアイドルが数多いるなかで、これだけファンに継続を望まれながら解散しなければならないとは、人の世は、ほんとうに難しく、どうにもならないものなのだろう。

SMAPに対する主観的な関係をいえば、「同世代」ということにつきる。本来アイドルというものは、遠い、憧憬の関係性で成り立つものなのだろうけれども、SMAPについていえば、中居正広と木村拓哉が同い年で、それなりに身体的にもあるいは会社の中で働くに連れて構造的にも歳をとっていく自分を対照するような存在でもあった。何しろ同い年にしてあの衣装を着て(着れない)、あれだけ体を動かし(動かない)、アイドルとして夢をファンに与え続ける(与えられない)ということがほとんど奇跡である。

もうひとつ、彼らは、時代のムーブメントとは違うところで自分たちの道を切り開いてきた。その困難さは、同世代として同様に受け止められるところである。彼らがデビューしたのは、すでにアイドル全盛でもなかったし、歌番組も少々下降線に入りつつある時期だった。今ではジャニーズはおろか、AKBなど、それが「当たり前」になっているアイドルによるバラエティを展開していったのも彼らだし、CDが売れなくなった時代にミリオンをいくつもたたき出したのも、曲そのものというよりも、大衆に膾炙する力に訴え出たところだった。

彼らは、何ともいえないアイドルになっていったのである。だからこそ、40歳を超えても続けられた。そのありようを一単語で表現すれば、「公共アイドル」であった。

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