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三好長慶は大河ドラマになりうるか [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

 日曜日、大阪のNHKに隣接する歴史文化博物館で、「三好長慶」のシンポジウムをやっていた。
 この企画を侮ってはならない。三好長慶である。三好長慶が何者か知っている人はそう多くはないだろうが、目下徳島県出身者を中心に、三好長慶を大河ドラマに、という運動が起こっているのである。NHKの大河ドラマはもちろん、ドラマであるとともに、一種の公共事業的な側面を持っており、主人公となればその出身地や本拠地に観光客が押し寄せる。いや、現在では押し寄せるというほどはないかもしれないがたくさんやってくることに変わりはない。
 戦国の三英傑と明治維新という看板の時代を除けば、大河の主人公となれる人物はそう多くはない。その時代であったとしても、真田幸村や何やら、ということになる。かつては「これは大河の主人公にならないだろう」と思われていた人物という意味でいえば、太平記の足利尊氏や、いまやっている明智光秀など、歴史上の「悪者」がたまに主人公になることがある。
 しかし、尊氏や光秀が主人公になれるのであれば、三好長慶がなってもいいのではないか。そう思うのが地元の人情なのかもしれない。ましてや再来年は北条義時である。なぜ三好長慶ではないのか。そう思うのが、地元の世論なのかもしれない。
 とはいえ、下克上という時代を画して登場し、そしてみずからも下克上の海に沈んでいった三好長慶をテーマにするのは難しい。なにせ、大河ドラマの主人公は一年間、描かれなければならない。

 南北朝の混乱期のなかで生まれた足利幕府は、その前の鎌倉幕府、あるいは後の江戸幕府に比べて特異な存在である。室町幕府、というより足利幕府と呼ぶのが相応しい。もう少しいえば、「足利閥幕府」なのである。
 足利氏は、遡れば清和源氏かつ源氏の勢力を坂東に築いた源八幡太郎義家に端を発する。源氏の嫡流はその次男義忠に継がれ、それが源頼朝に至るわけだが、四男義国は上野国足利荘に土着し、そこを本貫とした。同族には後に新田義貞を生む新田氏もある。
 この足利氏はその後面白い歴史を歩む。嫡流、源頼朝が挙兵した際にはもちろんともに戦い、新設された鎌倉幕府のなかでも源氏将軍の一族(御門葉)として重きをなした。しかしじきに源氏将軍家が断絶し、北条執権家が他の有力御家人たちを次々と滅ぼして得宗専制体制を築くなか、源氏の事実上本流となった足利氏もその標的になってもおかしくなかった。しかし足利氏は、北条得宗家ならびに有力な一族と姻戚関係を築き、嫡流は北条腹から出すということで北条氏に忠義を尽くした。その歴史が変わったのが足利尊氏である。尊氏は足利嫡流ながら母親が北条氏の出ではなく(尊氏の母方は藤原氏末裔の上杉氏であり、このことが後に関東管領から越後の雄・上杉謙信につながっていく)、鎌倉幕末の動乱期に京都で反北条の兵を挙げることにつながった。その後、ご承知のように尊氏は後醍醐天皇にも背を向けて北朝を建て、南北朝期の混乱を生きていくことになる。
 この混乱期に活躍したのが足利一門、すなわち「足利閥」であった。もはや源氏の棟梁となっていた足利嫡流に次ぐ名門であった斯波氏、新田氏庶流でありながら尊氏に同心した山名氏、足利家の所領であった三河国に生じた畠山氏、一色氏、渋川氏、細川氏、吉良氏、今川氏などである。こうした経緯により、足利幕府では、三代義満を除けば将軍の権力が弱く三管領・四職に制せられることが多かったが、足利一門という意味では、ほぼ日本の軍権をこの一族が手にしたに等しい。日本のほとんどの領国の支配者である「守護」を足利一族が手にしていたのだ。

 応仁の乱以後、将軍権力は名実ともに弱体化し、長く管領として将軍に仕えてきた細川氏が政元の代に到り、将軍義材を退けて幕府の実権を掌握する。
 この細川氏が、守護として主たる領国としていたのが阿波国(今の徳島県)であり、細川家の棟梁が京都で仕事をしている間領国を仕切っていたのが家宰たる三好氏であった。
 政元死後、跡目争いから細川家の内紛が起きるに乗じて家宰であり守護代でもあった三好氏は一度は細川主家に圧されたものの長慶の代に至って本家を破る。
 この、守護代が主君である守護を破って領国を支配することを「下克上」という。いまでは、プロ野球のクライマックスシリーズで下位チームが上位チームを破ることにすら使われる言葉だが、この本来の意味での下克上を果たしたのは三好長慶、美濃の守護土岐氏を滅ぼした斎藤道三らになる。その後、尾張守護斯波氏を滅ぼした守護代織田氏、近江守護京極氏を滅ぼした浅井氏、越前守護斯波氏を破った朝倉氏、などである。
 その意味では、三好長慶は本来の意味での下克上の先駆者だったのだ。そしてその活躍の舞台が京・大阪であったことが、彼の活躍を華やかにもし、また見えなくもした。主家である細川家はもちろん、将軍とも戦いながら、畿内一円と淡路四国に大領国を張った長慶は文字どおり一代の英傑であった。しかし、豪勢な果実が転がる畿内の領国争いは必然的に一族の内紛を生む。長慶の死後、三好政権に翳りが見えると、将軍足利義輝は上杉・武田・朝倉などに呼びかけ将軍権力の再建を目指すが、これを三好一族は見とがめてクーデターを起こし、将軍義輝を居城二条城にて忙殺してしまう。さらには有力な家臣でありこれまた一代の奸雄であった松永久秀とも対立。さらには、三好家の家宰である篠原長房が主家を凌ぐ権力を持ち始めるという歴史の皮肉にも見舞われる。
 この内紛のさなか、流浪していた将軍家のひとり足利義昭が、ついに尾張守護代織田信長の援助を受けて岐阜から京都へ向かう。三好政権はこれと戦うも敗れ、義昭の将軍就任をもってその栄華は幕を閉じた。

 なんともいえぬ一代記である。ドラマチックではあるが、複雑かつどろどろとしすぎていて、ちょっと大河ドラマにはなりにくい。一話のドラマなら可能性がある。どの地方にも、こうした英傑があるなかで、せっかく畿内・京都をその舞台にすることができながら、長慶と三好氏のドラマはまさに主家細川家、そしてそのさらに主家足利家の内紛と衰退をなぞるように、しかも短期間で進んでいった。
 しかし、このような一代の英傑がどの地方にもあったことを、今の日本が知ることは意味があるだろう。多様性とは単なる価値観の違いではない。歴史と文化、しかしそれらは誰がどのように形作っていったのか。上記に加えて、北条早雲くらいまでは歴史になっているが、それ以外の下克上、たとえば伊達輝宗、龍造寺隆信など成功しなかった下克上を描くという豊かさも、この、今の日本に必要なのだろう。
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