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古井由吉とともに、日本語も封じられる。 [観趣庵-詠聴に遊ぶ草庵-]

 メディアの世界で禄を食む人間としては、たとえば緒方貞子さんだったり、中村哲さんだったりが亡くなったときに、大いにその業績を顕彰し、一つの時代の区切りを嘆いてみせるところなのだろう。直接彼らを知っていないとしても、あたかも十年来の心の友人であるかのように語る人々の虚言が飛び交う業界には少々うんざりもしているが、それがこの世界で手付きを立てる最低限の倫理だということもわかる。

 しかし私だって、単にシニシズムなわけではない。人の訃報を聞いて言葉を失うということがないわけではない。ひとつの世の区切りを思わないでもない。木曜日がそうだった。古井由吉さんの訃報だ。NHKの夕方のニュースで聞いた。そして『仮往生伝試文』を読み返した。

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 奇遇だが、ちょうどその日の朝、本屋に足を運んで、駐車場代が浮く2000円くらいの本がないかと物色していて買ったのが『詩への小路』だった。長らく読みたかったのだが手が出ず、今年初めに文庫になったことを知ってさっそく、嬉しい心持ちで買ったのだ。そして訃報を聞いた。
 「内向の世代」と呼ばれた。だが内向とは、何に対する内向だったのか。日比谷高校の同級生だった古今亭志ん朝、東京大学の同級生だった蓮實重彦らとは違う「内」。江藤淳や石川達三に揶揄され批判されたが、それこそが「内」を向く姿勢だった。政治と文学、イデオロギーと文学、といったことが持て囃され、それに関わらないのは非誠実な姿勢だとされた時代。その姿勢こそが今の虚構的で虚無的な、政治に引きずられてインフレーションを過熱させる言説空間を作ってしまったのだともいえる。そのなかで、あくまで文体という手法と、言葉というメッセージの節度ある、自律的な幻想空間を刻み続けた。それこそが、「日本語」という言葉が最も日本らしく日本の日本たる核軸を語りうる、ということに目覚めていた人だった。
 戦後生まれの首相の周りに、戦後生まれの政治家たちが集う。戦争とは何か。日本は戦争に負けた。銃で負け、爆弾で負け、大砲で負け、軍艦で負けた。単に物理的な戦争に負けた、というだけでなく、日本なる日本の何かが負けたのだ。政治も負けた。イデオロギーも負けた。負けた国のなかに、負けた国でしか通じない言葉で閉じこもり、そして負けた要素を語り合って果たして日本は見つけられるのか。再生できるのか。その道の先に術があるとするならば、深く深く、日本をかたちづくってきた日本の言葉に沈潜するしかないのではないか。英語はもちろん、ギリシャ語もドイツ語もよくした彼の言葉への耽溺は、単に耽溺ではなく、言葉そのものが日本を語りうる、その方法によってのみ、戦争に敗れた国の明日を歩むことができる。そういうものだった。
 その極致が『仮往生伝試文』である。文句なく、戦後日本の最高の文学芸術と言っていい。メッセージ性が、とか、現実との関わりが、とかではない。文学ではなく、文学芸術。よく練られて、よく制御された耽溺と逸脱。透徹して日本的でありながら、その澄んだ壺水の奥底に日本という普遍を求める境地に達した一品。
 日本語の言葉が、どこかで、死に逝いた者たちの挽歌である、という誰かの思想を借りるならば、日本語を使うことは人の生死を語ることである。もちろん、死をいかに受け止めるかということが洋の東西を問わない、人を人間たらしめる思想の根幹であり、西洋ではそれを哲学と称した。しかし日本では、それはイメージとメディアのマネジメントの術として昇華されていった。それ以外にこの国の何が残されていよう。それは語り宇こともできるが、何より生きられねばならぬし、示されねばならぬものなのだ。
 新たなるグローバリズムの波濤のなかで、日本を如何に語るのか。もう語りうる人はいなかろう。あわいと相克と虚実と表裏を巧みに、人間の本質に遡って操る日本という普遍をさて、一冊を脇抱して世界へ向けて歩いてゆかねばならぬ。
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