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元号とグローバリズムと [道心庵-迷いに導を探す草庵-]

 我が家の近所の商店街には、「祝 令和」の文字がまだ掲げられている。近代に入って、初めて崩御を伴わない改元だ。一種の祝賀ムードになるのは自然のことだろう。
 この改元が、初めて日本古典の典籍から作られた元号であることも、大きな意味がある。万葉集である。とはいえ、こちらのほうは、何とも中途半端な終わり方になった。出典は万葉集とはいえ和歌から採られた、つまり日本語から採られたものではない。大伴旅人が、奈良の都を離れて太宰府に「左遷」とまではいわないが流謫の思いを少々抱えていたであろうさなか、遠の宮廷の文人たちが集い梅の花を愛でた三十二首の序文にあたる。つまり漢文の部分である。
 そしてすでに各所で案内されているとおり、この序文には先例がある。江戸時代初期の学者で国学の始まりでもある契沖は、『蘭亭序』に倣ったものではないかと推測しており、確かに『文選』では「仲春令月、時和気清」の文字がある。さらには後漢の時代の張衡には『帰田賦』という詩があり、同じ一節があるという。いずれにせよ、この序が中華の思想から独立に書かれた、というのは少々無理がある。
 だからといって、いい悪いという話をしたいのではない。これが中国の漢籍から独立した日本古来のもので中国の文化支配からの脱却だ、と主張するには無理があるし、一方で、中央政権から遠ざけられた旅人が中国古典の背景まで深読みし政権批判のコンテクストを書いたのだ、と読むことも、それぞれの政治的立場を主張するという目的ならかまわないけれども、今後の日本にとって何が残るのかにはあまり意味のない議論だ。大事なのは、浮かび上がってくる”日本”の姿のほうだ。

 先に答えからいえば、日本にとって歴史的に最大の問題は、グローバリズムとナショナリズムをどこでどうどのように折衷しながら、日本の国のかたちを維持するか、ということである。そしてこの問いには答えがない。あるのは、この問いが常に立つように、この問いが基軸となってこの国の歴史が進むようになっている方法だ。この国は大きくいえば、そのようにプログラミングされている。
 神功皇后の三韓征伐が史実かだったかどうかは別にせよ、大昔の日本はまだ「日本」という意識がなかったはずだ。歴史的に難しい問題なので先に言い訳をしておけば、朝鮮も特に国家意識はなかったはずで、対馬海峡を通じて両地域は頻繁に交流していたはずであり、史書文献に残る、韓国南部にあった「任那日本府」の問題も、あるいは史実かどうかは別にせよ筑紫国造磐井が新羅と結んで大和朝廷に叛乱を起こしたのも、半島と列島の間の融通な時代の名残を「日本」「朝鮮」という後の国家観から眺めた残滓とみたほうがいい。
 では「朝鮮」やら「日本」といった地域が国家として自立したのは何故か。別の問い方をすれば、「国家」というものが必要なかったこの地域に国家が必要になったのはなぜか。「国家」という組織がなければ生きていけない、滅ぼされてしまう世界標準の価値観、つまりはグローバリズムがやってきたからである。
 時代にあわせて推測していただければわかるように、そのグローバリズムとは、隋・唐の両帝国だ。このあたりもさまざまな研究と議論はあるが、大きくいえば、秦・漢から魏晋南北朝にいたる時代は、基本的には漢民族の価値観と国家観があり、それは帝国であったとしても中原を中心に理念的に華夷秩序が拡がるものだった。ときおりその漢民族の地域に異民族が入って混乱を来すけれども、漢民族の価値観と異民族=夷狄の価値観は異なるものであった。
 ところが魏晋南北朝の間に、北朝では鮮卑族の北魏が安定的な政権を作り、漢末から曹魏にかけて生まれ始めていた貴族制が、騎馬に乗った異民族の価値観と融合しながら形成されていった。一方で南朝は六朝が代わりながらも、漢人貴族層を中心に江南の経済と文化の発展を成熟させていった。この両方の果実、つまり漢民族と異民族の価値観が融合した国家制度が新時代のグローバリズムになった。漢宰相の蕭何が「法三章」でその価値観を象徴させたのとは異なり、価値観が異なった民族がぶつかっても文章と論理で紛争を解決する「律令」の時代を、強力な経済力でバックアップして推進する国家だった。隋も唐もその帝室は先祖を漢人に求めているが、おそらくは鮮卑族ないしその血を引くことは間違いのない、漢人にはない壮大な気宇を抱えた帝国だった。
 このグローバリズムが、極東の半島と列島にやってくる。グローバリズムは、グローバリズムに従わない地域の存在を認めない。最初の標的になったのは高句麗だった。隋の高句麗攻略は、現在でもソウル市街のメインストリートにその名を残す名将・乙支文徳の戦術で高句麗が押し返したが、唐の幾重かの攻撃にはついに耐えられなかった。一方で、半島側で唐と結んだのが新羅で、両者は組んでともに百済を滅ぼした。
 日本はこのとき、百済遺民を救わんとして半島に向け海戦に挑んだが大敗した。白村江の戦いは、その後の歴史に続く、日本海軍の壊滅的敗北の最初である。かくして、非グローバリズムを擁した国は一敗地に塗れた。先に大きな結論を言っておけば、グローバリズムには勝てないのである。これは、世界史を見たときに結局なぜ西洋文明が世界を覆うことになったのか、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に書かれたことでいえば、あるアフリカ人が語った、「問題はなぜ、あなたがたが私たちを支配しその逆ではなかったのか、ということだ」という結論にもいたる。おそらくはそこに合理性という問題があるのだが、今日はその論は止めておく。
 さて、大唐帝国というグローバリズムに直面することになった東アジアはどうしたか。鍵になったのは新羅だった。唐と連合して高句麗と百済、そして百済遺民を擁した日本を叩いた新羅は、しかし、今のほぼ韓国にあたる半島南半を領土とし、半島北半は唐に占領されたままであった。新羅は、半島にもグローバリズムの圧力をかけ続ける唐に対して叛乱を起こす。ほとんどゲリラ戦になったこの戦争は、唐本国が混乱したこともあり、結局は新羅が現在の38度線に近かった国境を鴨緑江までグローバリズムを押し返すことで終わった。その意味では新羅の勝利だが、新羅は一方で一度は戦った日本に対して下手に出て現実的な生き残りを探りつつ、かつ、文化的には中華思想というグローバリズムを全面的に受け入れた。この戦争以来、朝鮮では前述の乙支文徳の「乙支」のような固有の姓を捨て、「金」「李」「文」などの漢字一文字の姓を名乗るようになる。つまりは中国風、グローバル風にしたのだ。
 日本は、この唐と新羅の戦いの間つかのまの間隙を得た。白村江の戦いの後、今にも唐が攻めてくると怖れ、対馬に金田城を築き、都は瀬戸内海に接した難波から山を越えた近江に移したが、新羅との戦いのために戦争はおこらなかった。もし戦争が起こっていたら、「藤原」や「蘇我」といったグローバル的でない姓は残らなかっただろう。
 そしてこの間、国内では、政治的にも経済的にも社会的にも文化的にも、グローバルでいくか、非グローバル=ナショナルでいくか、という選択の争いが起こった。いろんな争いがあるが、一言でいえば、天智天皇系がグローバル派、天武天皇系が非グローバル派である。とはいえ話は単純にそうではなく、非グローバルを叫んだところでグローバルには負けるのであり、どのようにグローバルを懐柔し、折衷すれば非グローバル=ナショナルなスタンダードを構築できるか、という課題は双方に共通したものだったのである。
 政治的には672年に壬申の乱が起こった。大化の改新を果たした中大兄皇子・天智天皇を継いだ皇太子・大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷と、天智天皇の弟でこのときは隠棲していた大海人皇子の戦いである。ヨーロッパではよくある、王や王子たちが騎乗にて軍を率い、王朝どうしが戦いあうというシーンは日本ではこの戦いだけである。孤軍であった大友皇子に対し、草壁・大津・高市といった勝れた皇子たちを抱えた大海人皇子軍は大津朝廷を滅ぼした。大海人皇子は天武天皇として即位し、皇后の持統天皇とともにいわゆる飛鳥朝を構築していく。
 このとき、どうやら活躍したらしいのが、中大兄皇子とともに大化の改新をおこなった藤原鎌足の子・藤原不比等である。しかし不比等は、おそらくはその巨大な業績にもかかわらず記録があまり残っていない。だが、不比等以外に、この天武王朝のグランドデザイン、ひいてはグローバリズムとナショナリズムの間で「答えなく揺れる、柔軟な」日本というデザインをした人間はとうてい思いつかない。
 不比等は、712年に大宝律令を制定した人として知られる。律令は、グローバルなものだ。しかし彼の仕事はそれだけにはとどまらないはずだ。おそらくは、舎人親王と太安万侶を指揮して、『古事記』と『日本書紀』の編纂を文人官僚たちに指示したはずである。ここがミソで、日本語の発音で書かれた『古事記』と、漢文で書かれた『日本書紀』の両方を編纂したのだ。これは、グローバリズムを受け入れながら、グローバリズムにはない発想だった。
 さらには、文字がなかった日本語に対してどのように文字を使うか、という課題にも取り組んだ。単に表音文字として漢字を使うというのではなく、そこには、日本特有の文化を捉えるための言語シソーラス、中国から拝借したとしても日本ならではの連想のネットワークがあったはずで、これが『万葉集』に結実していく。私の想像では、この言語編集の過程にあたって不比等が、唯一それに足る感覚を持っていた詩人・柿本人麻呂と語り合いながら、事実上の日本語のオペレーティングシステムをプラクティカルに成立させていくさまが目に浮かぶ。
 このようなバックグラウンドのもと、元号も必要になったのだ。グローバリズム世界の仲では「倭国」にすぎなかったこの島々が、自分たち自身を「ひのもとくさか」から発して「日本」と称し、そこに「天皇」という存在を軸に構成していく力をこの時期に発揮できたのは奇跡に近い。少々想像を逞しくすることが許されるなら、最初の元号「大化」は事後的に付与されたもののはずだ。それは大化の改新から三四半世紀が経ったころ、昔に遡って、もともと蘇我入鹿というグローバル派と物部守屋というナショナル派の抗争のなかで聖徳太子という存在があったことに日本の未来を仮冒し、その蘇我氏が滅ぼされたことによってあたかも予言が成就したかのように、天武朝のグローバルとナショナルの間に立つ日本が定義された、そういう歴史をわざわざ、書きたかったのではないか、書かなければならなかったのではないか、ということである。

 その後も、このグローバルとナショナルの間の微妙な編集と編纂が日本のかたちを作っていく。飛鳥に本拠を置いた天武・持統の後継者たちは藤原氏と密接な関係を保ちつつ藤原京さらには平城京へと拠点を移す。平城京には、東大寺という、当時の国情からすればいささか身の丈を越えたグローバル思想モデル=仏教の象徴を築きつつ、しかしそれは大仏を中心とする国分寺・国分尼寺というナショナルネットワークの中心であるという二重構造を巧みに維持した。
 道鏡事件を経て天武朝が断絶し、天智の系統が復活すると、じきに都は奈良から京都へ移る。このときもグローバルとナショナルの戦いが起きる。かなりグローバルに傾倒した桓武天皇の後、奈良を根拠に復辟を試みた平城天皇と、京都に残った嵯峨天皇の間に起きた皇位争いは、世には「薬子の乱」として知られる。勝者となった嵯峨天皇は平安朝を切り開いていく。この時期活躍した空海や最澄の、グローバルでありながらナショナルを屹立させようとした手腕はその後の日本にとって言葉に尽くしがたい影響を及ぼしただろう。遣唐使が廃止され、国風文化と呼ばれる時代が将来されるが、その国風文化とは実に、和漢朗詠集や仮名序と真名序を記した古今集のように、「仮名」すなわち中国を真と捉え、日本を「仮」、ここでは仮りという意味ではなく、真行草の行や草と思ってもらえばいいが、そのように立つものとして、和漢や真行草が並び立つことによって初めて日本となるという文化を確立した。
 その後もこの構図は続く。後醍醐天皇はグローバルを知り尽くしたナショナルだし(後にグローバル世界のなかで開国した明治政府が南朝を正統としたのには意味があるのだ)、足利義満はナショナルを極めつつグローバルであろうとした。信長には正確な資料はないが、おそらくはグローバルで、豊臣秀吉はもちろんグローバル派だった。ただしこのときのグローバルは、中国ではなくヨーロッパ、スペインやポルトガルだった。秀吉の朝鮮出兵をもたらしたいささか誇大すぎた構想は、たとえば同時期のフェリペ2世がマドリードの宮廷にいながらフィリピンを支配している構図に対抗するものだったと思えば多少は合理的な意味合いを持つ。
 徳川幕府の鎖国は、この秀吉の誇大なグローバリズムに対する断絶をリアルに遂行するためのものだった。鎖国はナショナリズムではなかったとみたほうがいい。中国ではなく、西洋というグローバリズムに対して日本という「リバランス」のための方策だったのだ。何より、当時のヨーロッパのグローバリズムは、それまでの中国型グローバルが持っていた政治機構、社会思想に加えて、宗教と経済原理を持ち込んでくる、扱いを間違えばきわめて危険(つまり植民地になる)というものだったのだ。スペイン・ポルトガルはカトリックと重商主義、そしてイギリスとオランダはプロテスタントと資本主義を持ってきていた。ゆえに鎖国は、リバランスでありながらグローバルを拒む傾向がある。
 しかし鎖国の泰平が続くと、発端は忘れられてしまう。バランスをとるはずだったのが、徐々に外国船が来航するようになると、そもそもの「ナショナル」を問う思想が純化されていき、国学となる。冒頭に書いた契沖あるいは荷田春満のころは、和漢を並べることで和を問う、という方法だったが、本居宣長に至って、漢(漢心=からごころ)を排して和の純粋を追及する、そうやって古事記を読んでみる、という方法に至った。妄想とも言えなくもないが、ほぼ、これを貫いたのは宣長の驚異的な力だった。「大和魂=やまとごころ」の誕生である。しかもその「やまとごころ」は、最後は言葉でも文字でもなく「朝日ににほふ山櫻花」という光景や感情で捉えられるものだ、というふうに純化した。おそらくは日本において「ナショナル」を真摯に追求し尽くした頂上だ。
 その後の国学は、頂上から降りるよりほかない。宣長と違うことをやってさらに日本の奥を辿ろうとすれば、たとえば漢字以前に日本には「神代文字」があったのだ、という主張になる。ホツマ文字や阿比留文字などだが、目的のために手段があるような感じでさして面白い論ではない。そして国学は、尊皇攘夷というムーブメントのエネルギーと化していった。尊皇攘夷には本来、江戸幕府を敵とする思想はなかったはずだが、いささか狂奔した思想とテロリズムのなかで時代のエネルギーになった。そのエネルギーが燃焼し尽くしたころに革命は動き、本来の攘夷を捨て、イギリスと連携して幕府を倒した薩長が革命を遂行した。
 明治政府はさらに難しかった。日本とは何か、という問いが、複雑だったのだ。直面したグローバリズムが、中国でもなく、カトリックと重商主義の合体であるスペインやポルトガルでもない、イギリスを象徴する資本主義=帝国主義世界だったのだ。さらに、そのうえ、近代日本自体が朝鮮を植民地化したようにグローバリズムそのものでもあるという二面性も抱えていた。
 そういう日本がどういう国語で日本をかたちづくっていくのか、日本人は日本社会でどういう視座をもつことで生きられるようになるのかは難問でしかない。夏目漱石も森鴎外もそれに挑んだが、結果としては、近代世界と日本の狭間での煩悶が中心になったというべきだろう。それが日本というものなのだ、という境地に漱石が至っていないわけではないが、リアルなグローバリズムの問題は見えていない。
 この問題の解決がつかないまま、日本は、グローバリズムだとは思っていなかったアメリカとの戦争に突入した。日本の歴史にとってグローバルとは中国と西洋だったし、日中戦争とは、崩壊したグローバル=中国に対してグローバル側に立った日本が踏み込んでいく、という様相のものでもあった。しかし、昭和16年には既にグローバルはアメリカになっていたのである。アメリカ的合理主義の前に、日本は完膚なきまでに負けた。米内海相は敗戦時「日本を立て直すには200年かかる」と述べたといわれているが、それはグローバリズムとナショナリズムの関係をリアルに再構築するための時間としてはまさに適当だ。
 元号の話からずいぶん拡がった。しかしこの問いなしに元号を考えても仕方がない。元号をどうするかという日本にとって根本的な問いに向き合えなかったことは痛恨事である。森鴎外は「明治」という元号が、遙か昔、雲南の大理国にあったことを知り痛恨の思いをしたという。
 元号をどうするかは選択だ。漢籍からとるもよし、和籍からとるもよし。何ならひらがなという選択肢だってあったはずだ。問題は、それが国のかたちにかかわる、ということである。その真摯さなくして祝賀ムードしかないのであれば、今の政治が亡国に向かっているとはいわないが、本来ふたたびのかたちにむかう日本が、200年どころか、300年ほど遠のいたのではないか。そうした憂鬱な思いからは逃れられようがないのである。
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