SSブログ

大勲位死す [随思庵-徒然思いを語る草庵-]

 中曽根元首相が、101歳という行年で死去した。まずもって大往生と呼んで差し支えない。
 非難する人も、賞賛する人もいる。人間誰しも、100年も生きれば誰も知らないことを知っているし、誰もしたことのない経験をしているものだから、賞賛されても悪いことではない。一方で、その因縁は果報になったり悪報になったりして、現在に益もすれば害もするものでもあって、難じる人がいることもわかる。
 それが賞賛と批判で終わっては、しかしながら、日本の歴史を見失う。ちょっとそういう思いがあって筆を執った。

 1980年代、「東西冷戦」という世界概念の最後のシーンを覚えている人ももう少ないだろう。ソビエト型社会主義の実情は、鉄のカーテンを越えて聞こえてくるわずかな声をもってしても、ほぼ限界が明らかとなりつつあった。一方で、アメリカにはレーガン、イギリスにはサッチャーという新たなタイプの指導者が登場していた。どちらも、公共性を左翼的なものとみなし、ハイエク流の自由主義、自由経済によって活力を生み出し歴史の齣を進めていこうというものだった。
 実際、1960年代から1970年代前半にかけての社会主義諸国のめざましい進展をいま信じる人はいない。当時の指標であったGNP(国民総生産)は社会主義諸国が資本主義の国々を上回り、未来は人類の左手に輝いているように見えた。言葉やメディアを紡ぐ知識人たちはどの国でも、人間が歴史を切り開く力を信じる左派思想に共感しその言葉のエネルギーが横溢していた。日本でいえば、多くのインテリが中共と北朝鮮を賞賛し、返す刀で米国と日本の「自由主義」と「資本主義」を批判していたころだ。
 このため、資本主義国であっても、多くの国々では社会福祉制度の拡充、労働組合の発言力の向上など、社会主義的な政策を妥協せざるを得なくなっていた。しかしながらそのことは、イギリスにおける「英国病」という言葉のように、平等で理想的であっても停滞して豊かではない社会、という状況に直面していた。そして1970年代も後半になると、さしもの社会主義諸国の現実を見ても、それが「貧しい平等」であることが明白になっていた。ソビエトでは通貨が信用されず(逆説的には理想的な状況かもしれないが)、東ドイツでは車を買うのに7年待たなければならなかった。
 そうした時代に、社会主義を批判し、返す刀で国内の社会主義的な団体や思想をたたきつぶすというのがレーガンであり、サッチャーであった。そして日本では中曽根元首相だった。レーガンやサッチャーに比べれば穏健そのものだが、それにしても、「行革」を合言葉に、三公社五現業という国営企業にメスを入れたのは剛腕と言っていい。電電公社はNTTに民営化され、専売公社はJTになり、そして、何より有名なのが、労働組合の激しい抵抗を圧して、社内改革派と手を組んで成功させた国鉄民営化だ。中曽根は鬼籍に入ったが、そのときの改革派が現在もJR本州3社の重鎮であることを思えば、あるいは、あのとき国労が崩壊したせいでその後社会党が衰勢を避けられなくなったことを思えば、そう遠い過去というわけでもない。そしてそのことが、彼を語る最も大きな歴史的出来事となっている。
 
 実はそれ以外に、彼の時代とはなんだったのか語りにくい。中曽根の最も象徴的なキャッチフレーズは「戦後政治の総決算」という彼の政治思想だが、しかし、それは思想と言えるものだったのか。憲法改正や首相公選論を高々と吠えはしたが、彼に思想はあったのか。
 一言でいえば、彼の「戦後政治の総決算」とは、戦後日本の対米関係の”明確化”であった。思い切って行ってしまえば、対米追従姿勢の明確化だった。これは、それまで日本が独立していて、中曽根が急に追従姿勢に変わったということをいいたいのではない。そもそも、戦争が終わってから、敗戦国である日本は対米追従だったのである。しかし、歴代の政権は、それを追従ではないように見せかけてきた。それもまた重要な政治姿勢だったのだ。それをあからさまにしたのが、中曽根政権だった、と言っていいと思う。彼の思想ではなく、日本の「現実」をあからさまにしたのだ。
 理由はいくつかあるだろう。敗戦時、すでに官僚の重要ポストに就いていた岸・佐藤兄弟はすでに「アメリカとは何者か」という知見があり、その彼らなりの知見を、敗戦というバイアスを通しながらも見ていた節があるが、海軍主計局という下っ端軍官僚だった中曽根には、そこまでの知見がなく、アメリカに対して例えば日の出山荘で茶を飲みながらレーガンと懇談するといったパフォーマンスや、「不沈空母」発言くらいが目立つことになった。アメリカは単一民族ではなくプエルトリコ(だったかな)人とかいるからIQが低い、といった言葉も、彼が思想ではなく、ぽろぽろと、さして考えたわけでもないリアルを語ってしまう悪癖の証左だ。
 とはいえ、中曽根以前の日本には、ほんとうは独立国ではないのに、あたかも独立国であるように振る舞うという建前があり、その建前を支える政府(とその裏打ちであるアメリカ)を、これまた現実とは乖離した普遍的な市民=コスモポリタニズムの観点から痛打し続ける野党やマスコミがいた。この緊張関係もまた一種の建前にと言えなくもなかったのだが、中曽根が壊してしまったのは、この「両者建前関係」だった。
 これが成功したのには、おそらくは、1980年代に入り、国民の中に戦争意識、敗戦意識が遠のいたことがあるだろう。1970年代までは、敗戦なぞということは、わざわざ意識せずとも共有されていた公共的なコンセプトだったのである。しかし時代が変わり、その意識が国民から遠のけば、与野党の関係性、政治とマスコミの関係性は変わってくる。この潮目を中曽根はうまく掴んだか、乗ったのだ。もちろん一言附言すれば、盟友である渡辺読売新聞主筆もまた、戦争を知ってはいるが、敗戦時には東大の共産党細胞ブントだったという位置だ。思想よりも「リアル」を打ち出すことの方が、政権を、権力を持つことにつながる。そういう時代だった。
 中曽根を批判することはわかる。しかしながら、批判の先には、敗戦以降、日本社会が背負ってきた業のようなものがあった。それを、実に軽率にあっけらかんと明らかにしてしまったのが中曽根時代だったのだが、では1980年代の日本にどんな対案があったのか。しかも困ったことに、敗戦ということの重さを中曽根自体はまだ理解していただろうが、彼の後継者たち、金丸信や竹下登は、その敗戦から離れて、資金で与党政治を運営していくことばかりに集中する羽目になった。
 そうした中曽根はすでに忘却の彼方であり、彼の代名詞はとうとう「大勲位」になった。戦後唯一の、大勲位菊花大綬章の生前叙勲である。彼にそうした名誉欲があったのかどうかは私は知り得ないが、その言葉で彼を象徴すること自体、彼の時代を忘却してしまったことの証左のようだ。現在の政治には、もはや「敗戦」という意識は皆無だ。この国が「実は対米追従である」ことを知っていた、そしてそれを批判する言葉もまた「敗戦国であることには目を瞑っている」ことを知っていた中曽根の時代と違い、現在の政治家は日本がほんとうの独立国であると思っているし、批判する勢力はその言葉にリアリティがあると思っている。
 この忘却を回復するのは容易ではない。私たちはそんな時代にいる。中曽根には、生前、「国会議事堂の中央広間の四隅には板垣退助、大隈重信、伊藤博文の銅像が立っている。空いている一隅に、自分の銅像を建てるのではないか」という噂が、噂とは呼べぬほど巷間流布していた。その真偽はともかく、私たち今の日本人に残された選択は、その空白の一隅に中曽根の銅像を建てるのか、それとも憲政史に名を残した彼の銅像を建てるのか、しかないようだ。その不遇に目を向けることこそが、大事なのではなかろうか。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。