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わが心の史的ジョージア [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

 栃ノ心が優勝して、ジョージアに思いを馳せている。一生に一度は行ってみたい国だ。美人の女性が多い、という風評に心を惹かれてではない。
 東西交流の要衝、とか、文明の十字架、という形容がつく国といえば現在ではトルコが代表格だが、トルコがそうした国になったのは14世紀から15世紀にかけてオスマン帝国が遊牧国家を脱して地中海を抱くまさに「帝国」の威容を備えてからのことだ。
 それ以前は、その舞台としての地中海は少々、人間にとって大きすぎた。紀元前後に地中海全体を支配したローマ帝国はほとんど人類史上の奇跡といってよく(ヨーロッパがローマ帝国並みの文明水準を取り戻すのはその滅亡後千年経ってからである)、その長い中世の間、人々が交易するには、地中海は当時の航海技術からしてもいささか大きすぎた。
 そのかわり、適正規模の海があった。黒海である。そもそも巨大な内海である地中海と通じるに、島嶼海であるエーゲ海を介し、そしてそのエーゲ海にもボスフォラス、ダーダネルスという二つの隘峡のみでつながっている黒海は、波穏やかで航海にこれほど適した海はなかった。さらにこの海にはドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川など東ヨーロッパの大河が注ぎ、その大河を通じて船によってかなり内陸まで航行することができた。もちろんドナウ川を遡りきったあたりではライン川に接続することで北海へ、そしてドニエプル川を遡れば湖沼地帯を経てネヴァ川へ出て、バルト海へ出て、ヨーロッパを南北に横断して交易することが可能だった。
 ジョージアは、そんな黒海のアジア側の一角を占める。まだ西アジアの平原が人々にとって大きすぎたころ、黒海の豊かな土地と海を抱え、東西をつなぐルートにあったこの一帯は、アッシリアやペルシアなどの巨大文明帝国の周縁として、その交流を担うことで栄えた。
 その意味ではアルメニアやアゼルバイジャンと同じような位置づけだが、ジョージアの面白さは、幾たびも巨大帝国の支配にありながら、伝統的なキリスト教信仰を守り続けたことにある。

 セント・ジョージ、聖ゲオルギオスは、数あるキリスト教の聖人のなかでも人気のあるひとりだ。
 伝説によれば3世紀の後半に生まれ、勇敢な軍人としてその生涯を過ごした。世紀が変わるころディオクレティアヌス帝の迫害により殉教したとも伝えられるが、いずれも言い伝えの域を出ない。有名なのはカッパドキアにおいて竜を退治した伝説で、村を襲っていた竜を退治しようとしたゲオルギオスに竜が毒を吐いたその刹那、槍を口中に突き刺してゲオルギオスが竜を倒した、という話である。
 西洋における「ドラゴン」の古典的イメージは、このエピソードに拠っている。ゆえに彼は人気の高い聖人となった。彼の旗は白地に赤十字であり、これはセント・ジョージ・クロスと呼ばれてイングランドの国旗にもなっている。
 このゲオルギオスのエピソードが成立したのが、11世紀のグルジア、現ジョージアといわれている。むろん、グルジアという国名は、このゲオルギオスによるもので、キリスト教界で大人気の聖人の名をその国名に冠したのだ。それほど、崇敬が強い。歴史に拠ればグルジアでは十二使徒による伝道がおこなわれた、といわれ、当時としては信者が圧倒的に多い地域だった。その後、ゾロアスター教を奉じるペルシア帝国、あるいはイスラム教を奉じるアッバース帝国がこの地域を占領し、ときには同じキリスト教国である東ローマ帝国の支配も受けたが、豊かな平原とともに山岳地帯をも抱えるグルジアは頑強に抵抗し、信仰を捨てなかった。10世紀にはグルジア王国として全盛期を迎え、グルジア正教会を中心として首都トビリシに文化が花開く。その後モンゴル帝国の支配に入るが、14世紀にはふたたび独立する。しかしその後もティムール帝国、オスマン帝国、サファーヴィー朝のペルシア帝国に攻め込まれるなかで、頑強に信仰を守った。それは精神だけではなく、それを守るに値する豊かさがその国土にあったからともいえる。
 被支配の歴史のとどめは、ロシア帝国だった。グルジアがロシアの力を借りてオスマン帝国から独立したのもつかのま、今度はロシア帝国によって併合される。今でも紛争が続くチェチェンやオセチアを含め、コーカサス地方は民族の混合地域のなかで、ロシアとの複雑きわまりない関係がこの国の鍛錬度を上げていく。グルジア語が禁止され、グルジアなまりのロシア語で生きていく道がグルジア人たちに課せられる。それが一種の錬磨となって、グルジアはロシア革命ではひとつの大きな役割を果たす。そしてそのなかから蛮勇の青年が立ち現れる。グルジア名はイオセブ・ベサリオス・ゼ・ジュガシヴィリ、ロシア名でヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ、そのペンネーム「鉄の男」からスターリンと綽名された人物である。

 スターリンとは、全く謎の男である。ロシア革命自体も歴史の特異点であるが、そうはいっても、レーニンやトロツキーの行動や思想はまだしもロジックで説明がつく。ロジックで説明がつく、ということは、そこにある種の普遍性、ユニヴァーサリティがあり、それで一貫している、ということだ。しかしスターリンにはその一貫性がない。そもそも、ロシア人とは言いがたい彼が(グルジア語とロシア語は言語系統が相当異なるので、ロシア語が少々変なのだという。これはソ連末期のグルジア出身の外相シェワルナゼも同じだった)、全ロシアを統括し、ヒトラーの猛攻に耐え、共産主義帝国の皇帝然として君臨するにいたったのは、彼が民族や言語を超えた共産主義というイデオロギー、いわば普遍性を体現したからにほかならない。その一方でしかしスターリンは、この共産主義運動に普遍性を求めた、言い換えれば共産主義という思想が資本家や階級のみならず宗教や民族といった概念を消滅させうると考えたレーニンやスターリンと異なり、万国の”民族”に団結を求め、その強力なプロパガンダによって「ソヴィエト(=評議会)」という普遍的・抽象的な名を抱く国家の”ナショナリズム”を高揚したのである。
 こんなことはまずまずありえないことであり、しかし、そのありえないことをその一身において体現していたのがスターリンという歴史の異形だった。そのバックグラウンドにも、そらく、歴史が主体をとって語ろうとした、そのさまざまな歴史の相剋、普遍と特殊の相剋に揉まれたグルジアという国の経験と、豊かさがあらわれたようでいてならない。

 美人が多い国は、混血が多い、というのが都市伝説である。混血が多い国というのは、被支配の苦難の歴史を重ねながら、しかし、国としての意味を保ち続けた歴史をさす。
 栃ノ心もニコラス・ケイジを思わせる男前だ。その貌に、まだみたことのない国の風土と歴史を思う。苦難と特異の歴史かもしれないが、それは東洋の島国に住むものにとっては、やはり豊かさと表現されるべきものだ。その想像が、荒れ荒れの業界を豊かにする支えになればよいが、と、これもまた普遍と特殊、民族と帝国の相剋に揉まれている角界を眺めて思う。
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