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春秋庵-日々の消息を語る草庵- ブログトップ
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カズオ・イシグロと村上春樹とノーベル賞 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

 ノーベル賞を日本人がどう受け止めるか、という基本的な枠組みを作ったのはやはり湯川秀樹博士の物理学賞の受賞だろう。
 これは1949年の出来事だった。つまり、戦争が終わり、というより戦争で負けて、自尊心も独立性を証明するものも、ひとことでいえばアイデンティティの証明を世界に向かってすべて失った日本人が、「いやいや日本もまだすごいのです」といえるための重要な出来事だった。ノーベル賞は、「人類の進歩と発展」という、すぐれて普遍的、すなわち世界を覆った西洋的な価値観に基づき授与されるものであるから、これを受賞すると云うことは「西洋普遍に通用する日本」を証明するものでもあった。
 だから私が子どもの頃、1980年代ぐらいまではノーベル賞受賞者の名前を全部言えたし、言えることに意味があるような風潮もあった。私が小学生のときで、まだ5人だったと思う。湯川秀樹、朝永振一郎、川端康成、佐藤栄作、江崎玲於奈。その後福井謙一、利根川進あたりからはぐっと人数が増えて、もう記憶することも難しいほどになった。
 そして、それに合わせて「西洋普遍に通用する日本」という枠組みの意識は消えて、枠組みだけが残った。これが、ノーベル賞「騒ぎ」の原因である。マスコミも、読者視聴者も、もともとの意識がわからないまま「ノーベル賞」という名で騒ぐ。

 その典型が「今年こそ村上春樹が文学賞を受賞するか」というニュースである。千駄ヶ谷の”聖地”にファンが集まり、今年こそは、と期待を募らせては落胆する。

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日本はフェイクニュースを捉え違えている [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

 「フェイクニュース」も、去年のアメリカ大統領選挙ではずいぶん流行したが、この総選挙ではほとんど言葉が出てこない。相手を「フェイクニュースだ」と罵るやりとりもない。が、フェイクニュースはどこにでもある。だんだん当たり前の存在になり始めている。それが最も怖いことである。

 何度か書いているが、フェイクニュースには日本では根本的な誤解がある。フェイクニュースを「嘘のニュース」と訳すし、それで間違いはないのだが、日本で「嘘のニュース」と行ったときには、政治上の対抗勢力を貶めるためのデマや嘘の情報のことをいうことが多い。少なくともそのように扱われている。
 だが、その意味での嘘のニュースやデマは今になって目新しいことではまったくない。メディアというものが人間界に生まれて以来、その手のものは存在したし、これからも存在し続ける。それはそれで対抗のしようもある。
 「フェイクニュース」という現象は、Aという政治勢力とBという政治勢力の間の問題ではない。それはたとえ嘘のニュースであったとしても、何らかの明確な政治的な意図がある。「フェイクニュース」にはそれがない。人間ならどこかでもっていそうな、政治的あるいは主義主張にかかわる意図が皆目ないのに飛び交う、根拠のない情報なのだ。

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地上波放送のルールとしがらみと [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

 こういうことをしているからいかんのですよ。
 放送法上の放送免許を持った事業者は、ふつうのメディア事業者と違って特別な責任と倫理観を負っている(背負わされている)ので、地上波事業から他のビジネスに客を引きずり込むようなことをすれば、地上波免許を持っていない同業者からこのような批判を受けるのは当然。

 放送法でさまざまな権利を守られていることと、コンテンツまで含めた完結が一度地上波で完結することが現在の仕組み。この仕組みに問題点はあるけれど、しかし、それをいうなら法律を変えてからにしないと。

 もはや放送法の話が、表現の自由の問題ではなく、ネットを含めたメディア環境の中でのフェアネスの問題に移ってきているように思います。

Huluでドラマ完結編 日テレ社長反省「誤解を招いた」
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鱓の歯軋りの聞こえ方 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

後ろから鉄砲玉 衆議院議員 河野太郎公式サイト

 この河野大臣のコメントを、どう受け止めるかが日本の”リベラル”の現状を示すひとつの指標になるだろう。自民党の中でも、反原発等リベラル側からも評価が比較的高い大臣だからなおさらだ。
 私も現場にいたわけではないから、事実がどうかは判断するすべがない。ただし、国際会議に何度か出席した立場から云うと、高校生がしゃべるぐらいいいではないか、というような感覚は日本的すぎて大甘だ。 もちろん、常に大甘なのは日本代表団である。何の国際会議においてもだ。なぜなら、拠出している金が違う。一般的に通用するルールの強さが、世界では国内に比べて段違いに低い。だから拠出している金額がものをいう。
 とはいえ、である。国際会議である以上、どんな貧乏な国でも「一票」をもたせろ、「一席」を与えろという声は強くなる。たんまりお金を出している日本やアメリカからすれば、「金も出さないくせに権利だけいいやがって」と云いたくなるようなこともあるだろう。
 もし、高校生に一議席を与えていたとすれば、それは日本としては、国連の運営に多くの拠出をしている国として、自国民への配慮だが、よその国から見れば外交官ですらない子どもに代表団の椅子を与えている金満国家のふんぞり返りっぷりががまんならない、ということはありうる。そしてそれに文句をつける国もあるだろう。
 そういうわけで、こういうことは十分起こりうる。

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解きほぐしようのない日韓情戦 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

 残念ながら、韓国との関係はある意味で決定的な時期を迎えてしまった。もちろん、決定的だからと云って断交だの戦争だの、ということになる時代ではないが、日韓双方の気分が、国家であることを超えてしまっている。

 私は私なりに、韓国・朝鮮籍の知り合いと多くつきあってきたから、それなりの意見はある。そして私見はおおよそ、日本の”リベラル”と呼ばれる見解とは異なるところにあるので、以下述べることも日本の主流の方々には違和感があるかもしれない、ということは承知の上で書くことである。
 慰安婦問題は難しい。もちろん戦争に関わることは概ね個人にとって悲惨なことが多いので、情の部分まで解決することは簡単ではないが、それにしても、他の戦争に関わる諸問題と比べても、本来もう少し、理路整然と解決へ向けて双方が努力できるはずだった。
 しかし、この問題に関わるステークホルダーが多くなりすぎて問題が何なのかもよくわからなくなってしまった。このことの根幹は、やはりどうみても、朝日新聞が中心となって、「自ら軍人として”慰安婦狩り”をした」と告白した人物の”捏造”を大々的に伝えたことである。

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ひとり上手 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

福岡で同僚たちと飲んでいて、
「ひとり共謀」

という単語を思いつきました。

しばらくマイブームになりそうです

何がいけないのか、定まらないと。 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

森友学園の園児たちが教育勅語を言わされているのを見て思い出したのは、小学生の餓鬼の頃、クラス全員で憲法9条を唱和させられるのがほとほと嫌だったことだった。こっちもまだまだやっているらしい。憲法9条と教育勅語のどっちがイデオロギー的に正しいか、というのではなく、学校の教室という場でそういう同調圧力をかけること自体がよろしくないよね、という社会になる日は来ないのかな。

教育勅語 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

教育勅語自体に、実はそんなに個人的には拒否感がない。あくまで個人的なベースに限れば、違和感はあることはあるのだが、そういう文脈で言うのならば、高教育の場で憲法前文をクラス全員で唱和させられたりした(実体験)ことへの違和感も同様にある。選手宣誓で首相への感謝を述べさせるのはさすがに行き過ぎだが、勅語を奉唱する幼稚園もあれば、憲法9条に無理なメロディーをつけて先生がギターをかき鳴らして歌う学校もある(かつてはあった。最近はないのかな)。さらにあくまで個人的なことをいえば、できればどちらもやりたくはない、というところだ。

ただ、どうしようもないこととして、日本は戦争に負けた、という事実がある。戦争に負けたことを捉えるか、戦争で多大な惨禍を内外にもたらしたことを焦点化するか、は、いろいろ立場があるだろうけど、戦争に負けた事実は消えない。その、敗北のなかで、教育勅語というものがそれなりに機能していたことも確かである。軍人勅諭は戦陣訓ほどではないにせよ、である。内心でどう思っていようが人の自由だが、公に触れるときにはそのときに思いをいたす、というのが、何やらこの国の歴史に対しての繊細な対応というものではなかろうか。言いたいことがあるなら、それが外に聞こえることは当然の時代ならなおさら、その機微が入り用になってくる。

孝行や忠義といった徳目を訴えたいなら論語でもいい。個人的には儒より仏の影響下にある人間だが、仏典をもってしても忠義も孝行も語れないわけではない。まじめな話をすれば、明治日本が列強と伍して世界に出て行くときに、憲法を近代化、すなわち道徳的な要素を減らすという大決断を元勲たちがしたのに対し、保守勢力が巻き返しとして作ったものが大まかには勅語といっていいが、そこまで真剣な思考なのではあるまい。

こういう話をタブーにし続けても前進しないことも確かだ。なぜ、論語ではなく勅語なのか、ということを分別できれば、まだしも主張に力があるだろうに、そうでないことを声高に叫んで力を見せようとするのは、せっかく徳目を語ろうとするところに少々、品位を欠いてしまうところがあるようだ。これも今の政治なのかもしれないが。

制度で考える知性 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

昨日も、某「ジャーナリスト」のみなさんと話をしていたのだが、この種の人たちと議論しても話がいっこうに進まないもどかしさを感じる。正確にいうと、その場の話は進むのだが、その話は進み方も含めて、15年前から全く変わっていないのだ。

その間、世の中は進んでいる。一時、彼らのような人たちは中曽根康弘を従米僕のように罵り、小泉純一郎をポピュリストと詰り、橋下徹を難じて、いまはそのターゲットが安倍晋三である。そのことはいいのだが、何も進んでいないのだ。安倍首相を批判しているようでいて、その実、安倍首相の次にもうひとつ別の敵が現れたら、いま首相を敵視していることも忘却して新たな敵を詰ることに自分の存在意義を見出すことだろう。

今の政治は、反知性的だという。もしそこに知性的、という意味があるのならば、この問題を構造化して捉えるより他ない。なぜ、“リベラル”から見れば敵視すべきような政治ばかりが続くのか。そして70年も声を挙げ続けているのに、“リベラル”の側は勝ち得ないのか。その問題に構造的に向き合うより他ない。

前者の問いは、なかなか難しい。おそらく日本社会の根源的な“核”と、西洋から来た民主主義という制度のズレに着眼しながら捉えていく必要があるだろう。一方後者の問いに対しては、当面の答えは簡単である。自分の「正義」と、社会制度のしくみや構造を分けて捉えることである。

先日も、ある「ジャーナリスト」が、NHKの現在の放送を捉えて、「なぜ経営委員は現在の偏った放送をやめさせないのか」と発言していた。しかしこの人は2年前には、当時経営委員だった百田尚樹氏が経営委員だったころには、「経営委員が番組についてコメントするのはけしからん」と言っていた。もう忘れているのだろう。忘れている以前に、このことが矛盾とは捉えられないのかもしれない。

結局、自分の正義に近いことはよくて、そうでないことはダメだ、というだけではものごとは進まない。社会や制度は多かれ少なかれ、意見が異なる、正義を異にする人たちがどのように暮らしていくか、というために設計されている。話し合えば正義にたどり着く、という見方もあるが、それは、おそらくは宗教的な装いを纏った全体主義にしかならないだろう、というのが歴史の知見の伝えるところだ。

もし反知性、反リベラルな動きを抑止したいのなら、そうした動きを合理的に抑止する制度を構築する必要がある。それが法というものであり、明示的か暗示的かはともかく制度というものであり、ルールというものだ。自分にとっていやなことを防ぐ効果があることは、もちろん同時に、自分がもし力を持った側に立った場合は自分の力も抑止されるが、いくら自分が正しいからといってもそのことも引き受けるというのが近代だ。

ただ、このことは、日本ではとても難しい面がある。これは右であろうが左であろうが、いやネトウヨであろうがパヨクであろうが関係ないのだが、自分の「正義」を純粋に捉えることが言論の基軸になる、という傾向があるのだ。これはおそらくは幕末の尊王攘夷の折り、国学が「直なる心」とか「古道」とかいうものだ。これはこれで論考が必要なので他日に譲るが、この「直なる心」を言論や行動の基軸にすることによって、二・二六事件も起きた。こういう思考は論理を必要としない右翼の専売特許とされることが多いが、どうしてどうして、左翼のほうだって論理が吹っ飛んでこの「直なる心」が発揮される場面は多い。かつての「ダメなものはダメ」とか、先年のシールズの活動などもそうだ。

とはいえ、そんなことばかりしている余裕がない。早く、次のルールを作らなければならない。課題は具体的だ。首相の任期に制限を設けるのかどうか。もしいい人が出たとしても任期に制限が出るが、それでいいのかどうか、といったことだ。そしてこのことを変えていくには、現在の憲法の「民意は最高権力的に正しい」という思想を覆す必要があるが、この社会はそれに耐えられるか。実は護憲、立憲主義ほど、この問いにいまぶつかっていることが、なかなか伝わっていないのか、見えてこない。

表現の公共性という「場」の問題 [春秋庵-日々の消息を語る草庵-]

元フジテレビアナウンサーの長谷川豊さんが、ブログで物騒なことを書いて、テレビ番組を軒並み降板することとなった。

長谷川さんとは面識もないので、「さん」づけで呼びたいと思うが、一方で、これを「降板させられた」というのも何か違うような気がするので、自然の流れとして「降板することとなった」と評したい。私の知り合いのなかには、今回の一件を「揚げ足取り」とか極端には「言論弾圧」と言ってくる人もいるが、そういうものではない。

今回の件で、長谷川さんの表現の自由は一切侵害されていない。もちろん、個人としての表現の自由である。個人の表現の自由は憲法で保障されたものだ。そして表現の自由は、個人の内面に関わるものであるがゆえに、さまざまな「人権」と呼ばれるもののなかでもとりわけ丁寧に取り扱われることが定められている。現今の世の中には「人権」が嫌いな方も多いのは承知しているが、現行憲法はそうなっている、ということだ。

ちなみに、日本国憲法における「表現の自由」は、他国と比べても驚くほど幅広い。これはリベラルの方が絶賛するが、それもちょっと違っていて、リベラルな方が嫌いな言説も許容する、という意味である。たとえばドイツの憲法では、ナチスを賛美したり民主主義を否定するような表現は表現の自由の埒外、ということになっているが、日本の憲法ではこれを禁止する規定はない。ヘイトスピーチも、なんとか罰則なしの法律だけはできたが、違憲立法かどうかギリギリのところだ。

なので、長谷川さん個人が何を書こうとこの国では自由である。もちろんこれは、私が彼の論調に賛成するか反対するかということとは全く別の課題である。

しかし、これはあくまで個人の話だ。

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