SSブログ

非正規雇用問題:根幹を考えないと [道心庵-迷いに導を探す草庵-]

先日、伯母の葬儀に帰省するために朝方の池袋駅を通ったら、ホームレスの人の数が増えていてびっくりした。昔からホームレスがいる駅ではあるが、昔ながらの人だけではなく、新たに加わった人が多い。まだ小汚い感じがしないし、若い人が多い。40代、なかには30代と見受けられる人もいる。

それもこれも、もとはといえば小泉政権時代に派遣労働法が改正されたことによるのは、ニュース等で伝えられているとおりだ。労働力の「流動化」を促すとともに、労働者の側にも裁量のある、自由な労働環境を作り出すことを目的としていたと聞く。

実は経済学にとって、「労働力」とその対価である「賃金」は大問題であり続けてきた。経済学というものは、根本的にはいろんな“商品”の需要と供給の関係を考える学問だ。論理と数式を駆使すれば、需要の量と供給の量がある「価格」において“均衡”し、その点において社会にとってもっとも最適な分配がなされる、というふうに考える。もちろんこれはニュートン力学を模して経済学を「科学」化しようとする試みであり、それ自体に云いたいこともあるのだが、それはここではさておく。

さて、それがほんとの“商品”であるならばいいのだが、「労働力(者)」という“商品”、そしてその“価格”である「賃金」となると話がちょっとややこしくなる。まず、ふつうの“商品”はものをいわないが、「労働力(者)」という商品は、文句も言うし抵抗もする。それから、再利用が効かない。人情もある。何より経済学的に問題なのは、調整が効かない、ということである。人は企業の都合で簡単に生まれたり死んだりしないし、生まれたところで「労働力(者)」という“商品”になるまでは長い年月がかかる。実は「少子化対策」なるものはこうした観点への対策でもあるのだが、それがうまくいったところで、赤ん坊がまともな労働力になるまでの時間と企業が直面する状況が変化する時間が一致することはあり得ないから、究極の解決にはならない。

そういうわけで、賃金の問題は経済学上ややこしい。とりわけ不況になったとき、商品を作っても売れなくなるから生産量を減らす、そのための労働力も不要になる、というときに、すぐに労働者を解雇したり、賃金を下げたりできないことが「賃金の下方硬直性」という難しい名前で呼ばれる現象だ。この究極の解決のためには、労働者を「モノ」ないし「駒」として使う仕組みを作るほかない。現在の派遣労働法がすぐさまそうした仕組みだとは云わないが、しかし、その方向へ踏み出した法律であることは間違いない。

ところで、“商品”や“価格”に対する考え方には、もうひとつのポイントがある。それは、ある“価格”で交換された商品と貨幣は「等価交換」である、という考え方だ。これが市場原理を重視する見方の根幹にはある。等価でない交換、たとえば贈り物などでは、一方に「恩」が、もう一方には「借り」が生じる。こうしたそもそも不均衡な交換のあり方を経済学は嫌う。市場価格で等価交換をおこなうことが、純粋な経済行為であるというわけだ。

この観点からすれば、労働力と賃金は等価交換であり、もし十分な労働力(現在では「スキル」と呼ばれているものだ)を持っていれば、終身雇用のような長期的な契約関係がなくても、自分のスキルを十分に発揮して次々と会社を移りながら、自分のライフプランにあった人生を送ればいい、ということになる。(ただし、この理屈は裏返しがあり、たとえば無職の状態が続いている人には外的要因があるのではなく、単に彼の「自己責任」ということに帰着するのであり、これはこれで大きな問題だ。)

しかしながらこうした議論は、「お金を持っている人」と「お金をもらう人」の等価性を前提としているが、現実から見ればほとんど無意味だ。流動性の高い「貨幣」を持っている人が流動性の低い「労働力」と交換されるという非対称性そのものが、経済のはじめからつきまとっている。そのための安全装置を宗教であったり制度であったりして社会は工夫してきた。金持ちや商人を卑しんだり、通貨の発行権を政府が持ったりすることで、非対称性から生み出される混乱を回避しようとしてきた。

昨今の「新自由主義的」と呼ばれる経済政策は、等価交換が等価交換として自立することを前提に議論されているのだが、その前提自体への問いは皆無である。竹中平蔵氏などは、「正社員の労働組合が非正規雇用を仲間はずれにして自分の権益を守っているからこのようなことになっている」と発言しており、実際、そのことは当たっているのだが、しかし一方で彼らの云う正社員の“特権”を排除してみたところで、賃金と労働力の「非対称性」に目を向けないかぎりは問題は解決しないだろう。御手洗経団連会長の「景気が悪いからこうなった」発言も同様である。

政府がどの数値を元にどんな経済対策を発表しようと、この根幹に基づいた考え方をしないと何の解決にもならない。個人的には財政出動が必要な時期だとは思うが(その理由も別途いつか述べたい)、道路を造ったりするだけは論外である。では方法はないかというと、あると思う。やや大手術になるが。そのことも、のちほど考えてみたい。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。