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まされる宝 子にしかめやも? [道心庵-迷いに導を探す草庵-]

国会がようやく正常化して、今日から審議が始まった。空転していた理由が、柳沢厚生労働大臣の「産む機械」発言であったことはいうまでもない。もちろん、とうてい褒められた発言ではないが、揚げ足取りに走った野党の対応もどうかと思う。社民党の福島瑞穂サンはああいう人なので仕方がないのだが、さすがに本人の文脈を完全無視して批判するのを聞いていると白々しい。

 個人的には、ここに血道を上げている暇があったら、民主党が要求している、御手洗経団連会長の参考人招致をしっかりやってほしい。柳沢大臣をとっちめるよりは、偽装請負をしておきながら「法律のほうがおかしい」と居直っている下駄履き御曹司経営者の意識を改革したほうが、世の少子化対策のためにはよっぽど役に立つだろう。

 

 さて、柳沢大臣から離れて、「産む機械」発言のことを考える。澎湃と沸き起こった批判はともかく、この発言は、われわれが生きている資本主義社会の一面をしっかり突いているからだ。世のブルジョワたちにとって、プロレタリアートとは、労働力を提供する労働者であると同時に、生産物を購入する消費者である。経済が右肩に上がっているかぎり、労働者も消費者も増えたほうがいい。その意味では、男も女も「人間の再生産のための装置」である側面があるのだ。

 さて世のブルジョワ(ここでブルジョワという言葉を相当恣意的に使っていることはご了解いただいているものとして)にとって、市場経済とはなかなかに美しい原理である。需要と供給が一致するところで、最も適正な価格が決められて供給量が調整される。これぞ神の見えざる手、なのだが、この調整に乗ってこない、憎むべき生産品がある。それが、人間だ。

 実際のところ、人間の存在は逆説的ではあるが、資本主義の頭痛のタネであった。もしふつうの商品が供給過剰であれば生産量を減らせば済む。しかし、労働力が供給過剰だからといって、生産量を減らす=間引きをする、というわけにはいかない。困ったことに人間は、生まれてから労働力になるまでに十数年がかかるので、そのときの状況を的確に予想することも難しい。であれば、労働単価である給料を減らせばいいではないか、ということになるが、食えなくなるよりも給料を減らすことは間引きと同じなので容易ではない。ジョン・メイナード・ケインズが嘆き半分に「賃金の下方硬直性」と呼んだことである。その意味では、子を産むというプロセスに潜む根本的な困難こそが、資本主義を悩ませる「恐慌」の要因と呼んでも過言ではない。

 資本主義は発展とともに、地域共同体のさまざまな慣習をいったん破壊し、それを資本主義的に再構築してきた。マルクスが「疎外」と呼称したプロセスである。が、さすがに人間の再生産過程まではまだ科学=資本主義の力では踏み込めていない。ES細胞レポートは捏造であったし、もし可能となったところで、嫌悪感は強い。いまからざっと100年前にオルダス・ハックスレーが『すばらしい新世界』のなかで人工的インキュベーターを反ユートピアとして描いているわけだが、この嫌悪感は早々なくならないだろう。

 

 近代国家は、この困難をどうやって飼いならすか、というところで、経済政策の努力をしてきたという側面がある。「産めよ殖やせよ」というスローガンはもちろん、兵士の供給量を増やすという意味で非常に軍国主義的であるが、同時に、経済的でもある。この両面を最初に達成した近代国家はビスマルク政権下のプロシア=ドイツであろうが、ビスマルクは強固な軍事力と同時に、分厚い社会保障政策によって「産む機械」をフル回転させたのである。

 このことは、単に兵士の供給源ではない。国民国家における資本主義経済はその本性として、時間の経過とともに経済が右肩上がりでなければならない。そのためには、労働者であり消費者であるプロレタリアートを日々増加させなければならない。いわば時間的な植民地政策ともいうべきこの経済政策は、近代国家の基本となった。今回の大臣の発言を見ればそれが意識のなかにまで入り込んで「健全」という価値観を生んでいるのであり、今は亡きマルクス主義者たちが生きていれば、「下部構造が上部構造を規定する好例」として嬉々として取り上げたことだろう。

 しかし、そうした努力にかかわらず、国家権力は人間の生産を、十分にコントロールできないでいる。それは仕方のないことなのである。己の無力を隠すために年金の計算を水増しするような醜態は、即刻やめたほうがいいだろう。

 

 大臣の発言にまでしみこんだ(?)、国家権力の意向はわかったとして、われわれはどうなのだろう?

 経済的な豊かさを得た結果として、「子どもを作らない自由」「生まない自由」を得たことは人類の勝利だ、という声がある。それはそうかもしれない。インドは人口がいまだに爆発的に増えているが、その最大の社会的な理由は、社会保障制度が機能していないために、子どもをたくさん持って将来的に少しずつその子どもからカネを得ることが、もっとも有効な老後の社会保障である、という実情があるからだ。

 それから見れば、出生率が少ないということは、日本という国家の勝利なのかもしれない。しかし個人的にはそうは思えない。なぜ、と問われれば、自分が生まれてきたのだから、ということに尽きる。それが、相手を論駁させられるほどのまともな理屈になっているとも思えないが、そうとしかいいようがない。

 そして、これはIgarashi氏に教えてもらったことだが、経済的なことと出産との因果関係があるとはいえない。六本木ヒルズに子どもの歓声が響いているとは聞かないし、日本一の貧乏県・沖縄は出生率ではぴか一である。経済的なこととは違う動因が、働いているのではないだろうか、そう考えることが自然である。

 

 青い高原のお嬢さんドレスに身を包んだ勘違いの前少子化担当大臣(しかしあのオバサンはいったい何をしたんだろうか?)よりは、柳沢大臣のほうに期待したい。だが、そこは「健全」などという簡単な言葉ではなく、もう少し事の本質に迫ってほしいものである。

 自身国家官僚でありかつ詩人だった山上憶良は、「しろがねもくがねも玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」と歌った。さてさて、経済的な価値とは別に、超貧乏公務員だった憶良にも、「産む機械」に対してのある種の本質的な見識があったのではなかっただろうか?

 


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